0.導入
2023年9月、日立製作所は金融業界の基幹システムの構築・開発・運用を担う部署「金融ビジネスユニット(Financial Institution Business Unit、略称FIBU)」に所属する社員を対象にした事業創生支援プロジェクト「FIBU Incubation Lab」を立ち上げました。このプロジェクトがスタートした背景や具体的な取り組みについて、プロジェクトの初期からメンターとして伴走支援をしているアルファドライブ猪谷祐貴がモデレーターを務め、事務局の堀光孝氏と大野美佳氏に詳しく伺いました。
1. 約2800名のマインドを変え、イノベーションを生み出せる風土を醸成
一般消費者向けの家電メーカーとしてのイメージがある日立製作所ですが、売上の約21%(2023年3月期)を占めているのは「デジタルシステム&サービス」事業です。この事業は3つのグループで構成されており、顧客の業務システムや社会インフラのDXを推進するサービスやソリューションを手掛けています。
この事業でフロントビジネスグループに属する金融ビジネスユニット(FIBU)は、銀行や保険、証券などの金融業界のクライアント向けに、基幹システムの構築・運用をはじめとするソリューションを提供しています。
「足元の業績は好調ですが、今後の事業環境の変化は予測不可能です。さらなる成長を遂げるためには、新しい事業や変化に対応できる人財を育てる必要があると考えていました」と金融ビジネスユニットの堀光孝氏は話します。
不確実性が増すビジネス環境の中でも主体的に新しい挑戦していく人財を社内に増やしていく。そうした背景に基づき、立ち上がったプロジェクトが「FIBU Incubation Lab(以下、FIIL)」でした。
FIILでは、金融ビジネスユニットに所属する約2800名の社員を対象に主に次の3つの活動を展開しています。
・「顧客起点の事業創生プロセス」を学ぶことができる学習と経験の場の提供
・事業創生に関心を寄せる層が集まるコミュニティの運営
・実践・挑戦できる場としての事業創生プログラム「Frontier(フロンティア)」の運営と起案者の伴走支援
大野美佳氏は「FIIL」の目的について、「1人1人がワクワクしながらイノベーションを生み出す組織を実現し、金融ビジネスユニットに変革を起こすこと」だと話します。
「アルファドライブの麻生要一CEOのアイデアを参考に、イノベーションを生み出す組織になるために必要なことについて、我々なりに考えをまとめました。結論、顧客のフィードバックをもとに、仮説を立て、顧客との対話を通じてその仮説を継続的に試し、修正していくプロセスを重ねることが大切だという考えに至りました」(大野氏)
一方で既存事業に関しては、上司への報告、調査会議、資料作成などのプロセスに重きを置いていました。それは、事業の品質を保つために必要なプロセスでしたが、新規事業開発においては、時には足かせとなることもあります。
「新規事業では、既存事業で通例となっていたプロセスを省略し、直接的で迅速なアクションを求められます。イノベーションを生み出す組織には、フィードバックに基づいて仮説を修正するサイクルを素早く回すことができる人財を育て、増やしていくことが不可欠だと考え、『FIIL』の立ち上げにつながりました」(大野氏)
イノベーションを生み出す組織へ変革するために、「FIIL」では具体的な目標を3つ設定したといいます。
「1つ目は『真の顧客ニーズを捉えられる人財の育成』です。金融ビジネスユニットのコア事業として、顧客の要望に応える高品質のシステム提供を行っていますが、FIILではさらに上流の顧客ニーズ、例えば経営課題にもアプローチできる人財の育成をめざすことにしました。
2つ目は『組織風土の醸成』です。人財の挑戦を支えるためには、制度やルール、職場の理解が不可欠です。そこで、新しい挑戦の土台となる組織風土を整えていくことをFIILの活動の一環にすることを決めました。
3つ目は『新たな事業の創生』です。新規事業は『千三(せんみ)つの世界』といわれるように、成功確率が低く、実現までに期間も要することがわかっています。そのため、質の高いアイデアを継続的に生み出す体制をつくらなければいけません。1つ目の人財育成と2つ目の組織風土の醸成の実現を踏まえて、3つ目の新しい事業の創生に結びつくという考えに基づき、事業創生の具体的な制度の中身を練ることにしました」(大野氏)
人の育成と組織風土が成り立っていない状態で、いきなり社員のボトムアップで新規事業創生をめざすことは至難の業。そこで、「まずは人の育成と組織風土を整えることが先決」という考え方を採用。「FIILに関係する社員が増加することで、新規事業の種が増えていくというスタンスでプロジェクトの内容を詰めていくことになったそうです。
2. 学習と経験の相乗効果で「顧客起点の事業創生」の体得をめざす
3つの目標「真の顧客ニーズを捉えられる人財の育成」「組織風土の醸成」「新たな事業の創生」のもと、前述の下記3つの具体策を講じることになったといいます。
・「顧客起点の事業創生プロセス」を学ぶことができる学習と経験の場の提供
・事業創生に関心を寄せる層が集まるコミュニティの運営
・実践・挑戦できる場としての事業創生プログラム「Frontier(フロンティア)」の運営と起案者の伴走支援
まず、「顧客起点の事業創生」を学ぶことができる学習と経験の場については、金融ビジネスユニットに所属する社員が学びと経験を積めるように、顧客起点の事業創生に焦点を当てたセミナーやイベントを毎週実施。
例えば、事業創生のマインドセットを学ぶために、起業家を招き、実体験に基づく話を聞く機会を提供しています。ほかにも顧客のニーズを発掘するヒアリング研修や、顧客開発やプロトタイピングの方法に関する研修も行っています。
新たな挑戦を促すだけではなく、学んだことを既存業務に持ち帰り、既存事業のストレッチにつなげることも見込んで学習内容を設計しています。アルファドライブは、これらのセミナーや研修の企画・運営にも携わっています。
次に、事業創生に関心を寄せる層が集まるコミュニティについては、新たな挑戦に興味関心のあるメンバーが集まり、情報共有や相談に乗り合うオンラインコミュニティを開始。現在、400名を超える社員が参加し、挑戦を支え合う環境を整えました。
さらに、「FIIL」では意欲的な社員が新規事業に挑戦できる機会として、公募制の事業創生プログラム「Frontier」を用意。座学だけでは難しい顧客起点の重要性を認識するため、実践を通して新規事業や既存業務に活用できるメソッドやプロセスを習得できます。アルファドライブは外部メンターとして、起案者の仮説検証を伴走支援しています。
エントリーから書類選考までは自己啓発という位置づけですが、2023年10月に締め切られた第1回目のエントリーでは、70件の応募があったとのこと。
アルファドライブの猪谷は「約2800名の対象社員のうち、400名の関心層を集めて、そのうちの70名がエントリーしているということは、初年度であることを考えると、関係人口の築き方として素晴らしい」と話します。
書類選考で10件に絞られ、起案者は20%兼務で仮説検証を実践します。最終審査を通過すれば事業化検討の専任化を予定しているため、実務につながる成果を生み出せる可能性のあるプログラムとなっています。
3. 「あったらいいな」では生まれない。新規事業開発の失敗で痛感した顧客起点の欠如
実は大野氏は新規事業に挑戦していた過去があり、保険会社との顧客協創などの新規事業検討を5年半にわたり担当していたとのこと。その経験を振り返り、自分のプロジェクトには顧客起点が不足していたと打ち明けます。
「私たちのアプローチには顧客起点が明らかに欠けていたと気付きました。というのも、アイデアを検討する際に主に社内での議論に頼り、将来の社会課題を想定し、それに対する解決策をブレインストーミングで考えるという方法で進めていたからです。その方法で生み出したソリューションを顧客に提案しても、『使ってみたい』というお声をいただきはするものの、『お金を払ってまで使いたい』というケースはほとんどありませんでした。Nice to Have(あると良いもの)はつくれても、Must Have(なくてはならないもの)をつくれない歯がゆさを感じていました」(大野氏)
顧客の深いニーズにアプローチできない状態でソリューションを検討し、その結果、市場に受け入れられないという辛酸をなめた大野氏。この経験から、顧客起点のアプローチの重要性を痛感したと言います。
「アルファドライブ麻生さんの著書『新規事業の実践論』には300回と書かれていますが、事業計画を完成させるまでに、顧客のもとに何回でも足しげく通い、ヒアリングを重ねることが大切です。しかし、私はアンケートを取ってヒアリングしたつもりになっており、深さが全然足りませんでした。まず顧客の現在の課題が何かを明確に把握し、それが顧客にとって『お金を払ってでも解決したい問題なのか』を確かめることから始めなくてはいけません。その上で、提案する解決策が顧客の課題を本当に解決できるかを検証し、顧客が実際に価値を感じるものを磨いていく。失敗から得た気づきが『FIIL』のコンセプトにつながっています」(大野氏)
以下の図は、これまでの事業創生と、めざすべき顧客起点の事業創生の違いを分かりやすく可視化したもの。アルファドライブ猪谷は「事業創出の仕組みづくりに課題を感じられている企業はぜひこの図を参考にしてほしい」と強調しました。
4. 経営層との対話から導き出された新規事業の狙い
「顧客起点の事業創生を実現させるための仕組みを金融ビジネスユニットの中につくりたい」。大野氏をはじめ、それまで新規事業開発に携わってきた担当者たちに共通の思いが芽生えたものの、上層部の理解を得なければ物事は動きません。
猪谷は「新規事業を成功させるためのセオリーを上層部に理解してもらうためには工夫が必要」と前置きしたうえで、どのような工夫をしたのか尋ねると、大野氏は「自分たちでやってみることで説得力を持たせた」と説明します。
「2022年10月から堀と私を含めた事務局のメンバーや企画部門の約15人で、顧客起点の事業創生プロセスを体験。検証を行わずに製品やサービスを作るリスクの大きさや腹落ち感の違いを強く実感しました。この取り組みを通じて、事業創生のプロセスについて深く理解し、議論する必要があると再確認できました。この体験があったからこそ、当事者として確信を持って幹部に上申することができました」(大野氏)
また、提案にあたっては、熱意を伝えるだけではなく経営層の問題意識を汲み取ることを意識したと、堀氏は当時を振り返ります。
「経営層は新規事業の創出に興味を持っているものの、『千三つ』であることも理解しています。新規事業は投資対効果の不確実性が高いため、私たちも『顧客起点の新規事業創生のプロジェクト』のリターンについて明確な回答を持っていませんでした。事務局のメンバーは情熱を持って経営層を説得しようと努力し、経営層もそれを感じ取ってくれたと思いますが、最終的に重要だったのは経営層の問題意識を深く理解することでした。
そのためには頻繁にコミュニケーションすることが重要でした。そのため、最初はレポートラインから段階的な相談を経て経営層とやり取りしていましたが、よりアジャイルなコミュニケーションにするため、経営層と直接対話する場を設けていく形に変えていきました。これはマネージャーの理解もあったおかげで実現できました。このようにコミュニケーション頻度を上げていくことでトップの懸念点をきめ細かく確認することができたことが、最終的に双方が納得できる施策につながったと思います」(堀氏)
経営層との丁寧なやり取りを経て共通の課題となったのは、「人を育てる」ということだったと言います。提案では、新規事業を通じて、事業そのものだけでなく、それに携わる人々も成長し、それが組織全体の底上げにつながるという点を強調。この視点が経営層の関心を引いたと言います。
「経営層からは『成功する新規事業が初年度から生まれるとは思っていない』と言っていただき、まずは人の育成に照準をあわせたプロジェクトにする方向で合意を取りました」(大野氏)
また、アルファドライブ麻生の著書『新規事業の実践論』を経営層に読んでもらったことで、より理解を深めてもらうきっかけとなったとのこと。堀氏は「『新規事業の実践論』を読んだ経営層から、『提案のときに話していた内容がこの本に集約されていた』と言われ、その後の議論がより具体的で建設的なものになった」と話します。
また「FIIL」を実りあるプロジェクトにするためには、経営層だけではなく、管理層の理解を得ることも同じく重要です。トップとの対話でプロジェクトの方針が明確になり、さらにそれを関係者に広く知らせていくにあたり、堀氏は「最初から全てを完璧に計画するのではなく、実際に進行しながら必要に応じて調整を加えた」と言います。具体的には、関係者との会話を重ね、その場でフィードバックを得て、プロセスを柔軟に調整しながら進める方法を取ったとのこと。
「FIILに参加する、それが高じてFrontierに起案する。そういった挑戦をする本人の意欲はもとより、それをサポートする上長の理解が非常に重要になります。そこで、私たちは管理層と担当層の各社員からこの取り組みに対する懸念点や問題認識を丁寧にヒアリングしました。その生の声を経営層に伝え、情報を共有しました。経営層と現場それぞれの懸念をどう払しょくし、また実現したいことをどのように叶えるのか、丁寧なコミュニケーションで関係者の目線を合わせていきました」(堀氏)
こうした積み重ねが功を奏してか、「FIIL」が始動して以来、多くの社員から賛同を得てプロジェクトが進んでいるそうです。
5. 新規事業起案者たちの熱量に感動。事務局の圧倒的当事者意識を大切にしたい
「FIIL」が始動してから1年未満のため、コミュニティ活動のKPIやコンディションの測り方など手探り状態の部分はありながらも、確実に手ごたえを実感していると大野氏は強調します。
「『Frontier』の中間発表審査で、想像以上の熱量を持つ起案者が多く、思わず涙があふれるほどでした。まさか、こんなに感動できるとは思っていなかったのですが(笑)、手前味噌ながら一人ひとりのプレゼンの内容が本当に素晴らしかったです」(大野氏)
また、「FIIL」を運営する事務局の立場であるお二人に、大切にしているスタンスを聞くと次のような答えが返ってきました。
「事務局も新規事業を立ち上げている感覚で『FIIL』に取り組んでいます。私たちにとっての顧客は、経営層や社内の関係者、さらには事業の起案者たちです。すべてのステークホルダーの課題や悩みにどれだけ深く向き合い、適切に対応できるかを常に心がけています。たとえ解決策が分からなくても、まずは行動に移していくことで、その結果を信用してもらって私たちを頼りにしてもらえるような関係を築くことを大切にしています」(堀氏)
「”事務局”と聞くと、指示を出すだけで協力しないイメージを持たれがちですが、私たちは起案者に伴走することを心掛けています。起案者をはじめ関係している社員に寄り添い、それぞれの可能性が潰れないようにプロジェクトを推進したいと思っています。”事務局”という名前ではありますが、私たちはチームの一員として、起案者と伴走しながら共に成長するスタンスを重視しています」(大野氏)
事務局という俯瞰の立場ながら、まずは自分たちでプロジェクトを実行し、現在も当事者意識を持ち続けているお二人。その姿勢は顧客起点の事業創生に通じるものがあります。「FIIL」プロジェクトが始動してからの短い期間の中で、数多くの教訓を得たことが窺えます。とくに経営層への提案から合意形成のプロセスなどは参考にしたいナレッジではないでしょうか。
「新規事業創出の仕組みづくりに課題を感じられている方」「公募制度の立ち上げを検討されている方」「ボトムアップでの事業開発を取り組み/検討されている方」へ。もし「FIIL」のように事業創出の仕組み作りや制度設計をお考えであれば、アルファドライブはゼロからお手伝いすることが可能です。必要な論点の検討、審査の方法、予算の配分、人事制度の設計など、様々な側面でサポートいたしますので、ご相談をお待ちしています。
登壇者について
堀 光孝氏
株式会社日立製作所 金融ビジネスユニット 金融BU戦略本部 Lumada事業統括部 部長代理
日立製作所に入社し、自社IT製品の広告宣伝を担当。メディアリレーションを活用したプロモーション戦略の立案やオウンドメディアの立ち上げなど、数多くのマーケティング業務を経験した後に、新事業部門にて事業開発と戦略立案に従事。SaaSを中心としたサービスビジネスの戦略立案を担当した時に、マーケティング業務とサービス事業の経験を複合的に生かせる「カスタマーサクセス(CS)」と出会い、CS推進チームを立ち上げる。現在は、金融ビジネスユニットにて、新規事業プログラムの事務局を担当しながら、有志のCSコミュニティも運営。
大野 美佳氏
株式会社日立製作所 金融ビジネスユニット 金融BU戦略本部 Lumada事業統括部 技師
株式会社日立製作所 金融ビジネスユニット 金融BU戦略本部 Lumada事業統括部 技師 新卒でグループ会社に入社し、インフラエンジニアとして、信託銀行やネット銀行での基盤SE業務に従事。2015年に日立製作所に転籍し、保険会社との顧客協創等、新規事業開発担当者として5年半従事した後、撤退。自身の失敗・撤退経験を活かし、2023年より、新規事業創生プログラムの制度を立ち上げ、事務局を担当し、風土醸成や新規事業創出の仕組みづくりの立場として企画運営を実施。