自動車の精密部品の開発・生産・販売を主力事業としているグローバルメーカー・株式会社アイシン。事業全体の95%が自動車関連という同社では、数年前から新規事業開発に注力しています。その先陣を切るのが、世界最小の水粒子を生成・放出する技術「AIR(アイル)」を用いた理容・美容事業です。2021年にプロダクト提供を開始し、市場拡大を目指しています。
株式会社アルファドライブ(AlphaDrive)のアクセラレーションスタジオ「AlphaDrive AXL」では現在、AIR事業の拡大に向けた伴走支援を行なっています。新規事業のアクセラレーションフェーズにおける戦略や、具体的な取り組みについて、関係者に話を聞きました。
土井 久明 様
イノベーションセンター AIRビジネス推進室 ビジネス推進グループ グループ長
石川 博之 様
イノベーションセンター AIRビジネス推進室 ビジネス推進グループ 主幹
金子 祐紀
アクセラレーション事業部 プリンシパルコンサルタント
堀田 遼人
AXL MARKETING STUDIO スタジオ長
世界唯一の技術から誕生した理容・美容サービス
「AIR(アイル)」は、空気中の水分子を約1.4ナノメートルという“世界最小の水粒子”に変換するアイシンの独自技術です。自動車の排気ガス不純物処理に使われているカートリッジと、住空間の研究で培った調湿技術を組み合わせ誕生しました。
ヘアケア機器の「Hydraid(ハイドレイド)」(2021年リリース)は頭髪に、美容機器の「WINDSCELL(ウィンセル)」(2023年リリース)は肌にAIRの水粒子を投出します。髪や肌に微細な水粒子を浸透させることで、髪質の改善やスキンケア効果が期待できます。さらに、美容液などの薬剤を効果的に浸透させる作用も得られます。2023年現在、Hydraidは都内のトップサロンを中心に35店舗37台を販売。2023年2月に販売を開始したWINDCELLは100を超える美容クリニックから引き合いを得て、すでに5店舗で導入されています。
今後は、理容・美容領域でのビジネスをスケールさせつつ、AIRをさまざまな領域に展開。ヘルスケア、食品、農業、バイオなど、多岐にわたる事業を構想しています。
無限の可能性を秘めたAIR。理容・美容から、ビジネスを立ち上げる
──まず、事業立ち上げの背景についてお聞かせください。
土井様:
もともとAIRは、就寝時における喉や肌の乾燥を防ぐための調湿システムの研究・開発という、健康に対する課題意識からスタートしたものです。研究が進む中で「空気中の水分子を効率よく生体に浸透させる技術」として確立されました。
この技術は、当初想定していた健康だけでなく、理容や美容、農業、医療、バイオ、ものづくりなど、かなり広い領域で活用できます。
──AIRビジネス推進室のビジョンは「あらゆる資源が平等に手に入れられる世界の実現」と、壮大ですね。
土井様:
AIRは空気中の水分子から水粒子を得るため、砂漠地帯など極端な乾燥状態でなければ、世界中どこでも使うことができます。大げさな表現ではなく、無限の可能性を秘めている技術なのです。
世界規模の大きなビジョンを実現する、その第一歩として選ばれた領域が「理容・美容」だったわけです。もちろん、アイシンにとって未知の挑戦となります。
100年に一度の大変革期。イノベーション加速のため、外部連携を決断
──AlphaDrive のアクセラレーションスタジオ「AlphaDrive AXL」(以下、AXL)に、事業の支援をご相談くださった背景をお教えください。
石川様:
私たちの事業の95%を占める自動車産業は「100年に一度の大変革期」と言われており、業界の構造やコア技術が様変わりしていくことが予想されます。
当社では2015年よりイノベーションセンターを立ち上げ、これまで培った技術をベースにさまざまな新規事業開発に取り組んでいますが、依然として「ビジネスモデルチェンジは待ったなし」という強い課題感があります。これまで以上に、新規事業開発・事業化のスピードと質、両方を向上することが求められているのです。
新規事業開発に取り組んでいる企業をリサーチしたところ、外部パートナーと連携することで事業化を実現するケースが多く見られました。そこでまず、イノベーションセンター発の事業のひとつであるAIRから相談させていただきました。
──複数のパートナー候補を検討されたかと思います。AlphaDrive AXLをパートナーに選定した決め手は何でしたか?
石川様:
私たちが最も欲していたのは「生きた知見」でした。AlphaDrive AXLさんには新規事業の経験が豊富な金子さんや、マーケティングの専門家である堀田さんのようなプロフェッショナルがいらっしゃいます。実体験に基づく支援を得られる点が、とても魅力的でした。
──AlphaDrive AXLの金子さんは、リードコンサルタントとして事業支援に取り組んでいます。相談を受けた時の印象を教えてください。
AlphaDrive AXL(以下、AXL)金子:
アイシンさんのAIR事業は、すでに拡大を目指す1→10のフェーズに入っており、自律的に活動するチーム体制も整っていました。
AlphaDrive AXLの特徴のひとつが、チームのコンディションを見ながら、必要に応じて専門家をアサインするスタイルです。フルパッケージですべてを請け負うのではなく、必要な部分を柔軟に強化していく私たちの手法は、 AIR事業の拡大に貢献できると感じました。
前例なし。新規事業のカーブアウトを目指す
──2022年8月より、AlphaDrive ALXによる支援を開始しました。まず何から取り組みましたか。
AXL金子:
当時、AIRは立ち上げから1年半が経過していましたが、カーブアウト等を含めた今後の方針を、一旦腰を据えて考えるべきタイミングにありました。そこで、関係者の皆さんにお時間をいただき、徹底的に議論を行いました。
もし会社化を検討する場合、その目的に基づいて持株比率や知財の取り扱い、資金調達戦略や出向者の待遇など、さまざまな検討が必要になります。専門的な知見を共有しながら一つひとつ時間をかけて議論していきました。
土井様:
数えると10回以上でしょうか。改めてこのステップを踏んだことで「AIR事業の目指す姿」がより明確になりました。社内会議で提案するストーリーを強化でき、経営陣の理解が進んできたと実感しています。
AXL金子:
土井さんたちは支援開始当初から「AIR事業はアイシンとは切り出して、出島のような形で展開していきたい」とおっしゃっていましたよね。
土井様:
はい、AIRをさまざまな領域に広げていくには、クイックにビジネスを回す必要がありますし、スタートアップを含めた外部との協業も欠かせません。前例がない状況で、経営層にカーブアウトという新しい構想を理解してもらうには、強固なロジックを組んだ上で提案する必要があります。特に、金子さんにたくさんお力添えいただいた部分です。
AXL金子:
私自身、新規事業をカーブアウトさせた経験があるのですが……当時はまあ苦労しました(笑)。経営陣だけでなく、法務部門、経理部門、人事部門など、各部署に対してしっかり説明できるところまで構想を明確にしなければいけません。
そうした私の経験をもとに、特に苦労したポイントを整理し、皆さんの中にある思いを言語化・整理し、その上で議論を重ねることを心がけました。
土井様:
とても新鮮だったのですが、金子さんは全く忖度しないんですよね(笑)
例えば「このままではカーブアウトしたとしてもVC(ベンチャーキャピタル)はお金出してくれませんよ」という風に、ハッキリおっしゃってくれる。
金子:
失礼しました(笑)。誤解がないように加えますと、私はAIR事業自体にはとてつもない価値があると確信しています。しかし皆さんとカーブアウトについての議論を行っていた時は、AIRに関連する知財が全て、本体のアイシンに帰属することになっていたんですね。このままでは、AIRの事業は独立性がないと見なされてIPOが困難になる可能性が高く、VCからの出資獲得は厳しいかもしれない、と。こう言った踏み込んだ部分まで相談いただけるのは、支援者としてとてもありがたいことです。
土井様:
こちらこそ、ありがとうございます。外部パートナーの方に支援を依頼すると、クライアントである我々に遠慮して耳の痛い話をしてくれないケースもあります。しかしAlphaDrive AXLの皆さんは事業を成功させることを最優先に考え、必要な意見やアドバイスを何でもしてくださるのが印象的でした。
成長フェーズを見極め、マーケティングを集中的に強化
──ここからは、より具体的な施策について聞いていきます。AIR事業についての議論を重ねたあと、実際に取り組んだことは何でしょうか?
AXL金子:
私たちの支援スタイルが、状況に応じて柔軟に専門的な機能支援を入れていくというのは、前に述べました。AIR事業が今のフェーズで注力すべきだと考えたのは、Hydraidのマーケティングです。マーケティングの専門家である堀田をプロジェクトにアサインし、重点的に強化しました。
土井様:
マーケティングについては、本当に苦労していました。何せ、自動車関連がメイン事業であるアイシンにとって、「理容・美容」はまるで未知の領域です。顧客のニーズも業界の常識も分からない中、どうやってHydraidを訴求していけばいいのか悩んでいました。
──堀田さんから見て、Hydraidのマーケティングの課題はいかがでしたか?
AlphaDrive AXL(以下、AXL)堀田:
Hydraidは素晴らしいプロダクトですし、実際に使用した美容師さんや体験したお客さんは、その効果を実感されていました。
しかし、Hydraidから放出される水粒子はあまりに小さいため、目に見えず、施術中も何が起きているかわかりません。さらに、その場で劇的な効果がわかるのではなく、数時間経ってじわじわと効果が実感できるというもの。つまり、未体験の人に価値を伝えるのが、とても難しいのです。
加えて、土井さんが実感されている通り、理容・美容領域は特殊な業界。「ヘアサロン」と言っても規模やエリア、業界内のポジションによってインサイトが大きく異なります。
──課題に対して、どのような施策を行ったのでしょうか。
AXL堀田:
まずは、ターゲットであるヘアサロンのオーナーや美容師さんが、どんなお悩みを抱えているのかを整理するところから着手しました。
「競合と差別化したい」「新規のお客さんを開拓したい」「リピート客を増やしたい」など、さまざまなインサイトをセグメント化し、それらに対してHydraidがどう貢献できるのかを言語化する。そうした議論を一つひとつ重ねて、Hydraidのベネフィットや訴求ポイントを明確にしていきました。
同時に、顧客がプロダクトの認知から商談・契約に至るまでのプロセスを分析し、段階ごとに販促施策を検討していきました。
土井様:
堀田さんは毎週のように新しい施策を提案してくださいましたね。そのおかげでさまざまなテストマーケティングを行うことができました。
中でも印象的だったのは、SNSのデジタルマーケティング施策です。18パターンのメッセージ、4パターンのデザインを配信して、それぞれの反応を見ながら「刺さる訴求」を検証していったのです。こうしたデジタルの知見やノウハウは、伝統的な大企業にはなかなかないものです。
効果も着実に表れていて、新規リードの獲得数は好調。営業の現場でも「広告を見たよ」とお声がけいただくことが増え、認知が広がってきていると感じています。
AXL金子:
事業拡大の観点で話すと、AIR事業はちょうどSEED期※からALPHA期※に移行するタイミングです。この段階で重要なのは、目先の成果に捉われるのではなく、効果測定をしながらPDCAを回すことです。
再現性のある「型」がないまま大きな資金投入をしても、ドブに捨てることになりかねません。SEED期にテストマーケティングを繰り返して型を構築することで、ALPHA期で一気にアクセルを踏める(資金投入できる)ようになるのです。
最近、ようやく「型」が見えてきたと感じています。リード獲得単価は当初の約半分まで改善されました。そこで今は、マーケティングのさらなる改善を進めながら、獲得したリードに対する商談の成約率改善のため、セールス支援を厚くしています。
※SEED期:事業性実証。事業の成立を目指す段階
※ALPHA期:事業拡大。事業のグロースを目指す段階
2030年までに数百億の規模へ。アクセラフェーズの今が勝負の時
──最後に、AIR事業の今後の展望を教えてください。
石川様:
理容・美容領域については、AIRビジネスの基盤となるようなビジネスに成長させる必要があります。現状は首都圏エリアのヘアサロンやクリニック向けにHydraidとWINDSCELLを提供していますが、一般のご家庭に向けたサービス提供も検討していきます。
土井様:
具体的なロードマップとしては、2030年までに理容・美容領域を軸に数百億円規模の事業に成長させたいです。
そのためにも、今年はAIRにとって最適な事業の形をつくると共に、HydraidとWINDSCELLのマーケティングを強化して勝ちパターンを確立し、3年以内を目処にビジネスをスケールさせます。
石川様:
まずは理容・美容領域でスケールを実現し、どんどんフィールドを広げていきたいですね。
AIRを活用すると、例えば食の領域なら、発酵食品に使うことで発酵スピードが上がったり、野菜に使うことで栄養素が増加したりといった効果を得ることができます。さらに、にきび治療やアトピー治療にも効果がある可能性が見えてきています。
他にも、AIRが貢献できる領域はたくさんあるはずです。さまざまな領域のパートナーとの協業も視野に入れながら、AIR事業を拡大していきたいですね。
土井様:
そう遠くない未来には、あらゆる領域、あらゆる場所にAIRが普通に浸透している──そんな世界を実現したいです。今後とも、よろしくお願いします。
支援体制:リードコンサルタント/金子祐紀、マーケティングディレクター/堀田遼人
取材・執筆:榎並紀行(やじろべえ)
写真:赤松洋太
デザイン:木下隆之輔
編集:大久保敬太